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【ディスクレビュー】BUMP OF CHICKEN 『COSMONAUT』 - 「複雑化と時空旅行」
2014-03-29 Sat 01:13

COSMONAUTCOSMONAUT
(2010/12/15)
BUMP OF CHICKEN

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 前作『orbital period』以来約3年ぶりとなった『COSMONAUT』が発売したのが、もう4年も前になる、。3年から4年のスパンで作品を生み出しているバンドなので、この長期間というのはさして驚きでもなんでもないわけだが、本作で驚くべきは、ブルースとカントリーという藤原の音楽趣味に依っていたバンドの音楽性が、また一つ変わったことだ。
 「三ツ星カルテット」と「beautiful glider」を聴いてみよう。アルバムのトップとラストをそれぞれに飾る曲であるが、今までの彼らのプレイからは想像できないくらい、複雑なリズムを刻み、アコースティックギターの高速アルペジオが奏でられている。この複雑さ、一体どこからアイディアを頂いたのだろうか。
 想像するに、それはマスロックではないか。複数なコード/変拍子/予測不可能な曲展開をベースにした、ソリッドなギターサウンドでゴリゴリと押していく、そんな音楽ジャンル。思うに、バンド音楽でいうところの「キメ」のタイミングや、音を鳴らし合うことで構築していく、細かく言えば、発生させた音で曲という建造物を建築(アーキテクトする)していくことに興奮を求めた、プレイヤーの求道的な姿勢に裏打ちされた音楽だ。

詳しくは↓のコラムを、古今東西様々なマスロックをまとめあげた入門的コラム
COLUMN: Math Rock / Pop http://hihiwhoopee.tumblr.com/post/71830923334/column-math-rock-pop







 「モーターサイクル」を筆頭に、「分別奮闘記」「透明飛行船」と並ぶこの3曲は、本流のマスロックとはサウンドは違うものの、リズムを学理的に追いかけ、バンド隊それぞれが適切なタイミングで音を鳴らしダイナミズムを生み出すことに注力しているように聞こえる。シングル「R.I.P.」も含めて、ドラマーの升はかなり凝ったパターンをいくつも聴かせてくれる。そして先にも挙げた「三ツ星カルテット」と「beautiful glider」、カントリーミュージックとマスロックとを掛けあわせたBUMP流の回答がこの2曲にあるのだ。

 なぜBUMP OF CHICKENは、サウンドの複雑化へと接近したのか。4人自身のプレイヤビリティを上げて生み出せる楽曲の幅が増やそうとした、これまで揶揄されていた「演奏がヘタ」という声を払拭しようとした、学生の頃から仲の良い4人で生み出す音楽という絆を大切にした現れ・・・それらがからみ合った故の接近なのだと思える。
 
 そしてこのサウンドの複雑化は、どんどんと大人になっていく彼ら自身を表しているように思える。藤原が描いた歌詞にもそれが十分見えるようになった。

 ここで一度、彼らの作品と裏側を、大きく俯瞰してみよう。
 1作目の『FLAME VEIN』から3作目の『Jupiter』までは、無理に強がってキミのために歌を唄い、それが崩壊してしまう、同時に彼の極私的な内情の吐露が、他者である聴き手からの共感を得てしまう、この2つが同時進行し絡み合っていたように見える。

 4作目『ユグドラシル』と5作目『orbital period』を、それまでの『自分から自分に語りかける(他者を使って自分を照らすような手法で)』ことから、一歩踏み出して『自分から他者に語りかける』という大きな転換を起こした。音楽性の変化も加わり、熟成を経て産み落とされたのが今作だと言えよう。

 今作のために藤原が唄った言葉の中でもっとも面白いのは、今現在の存在から見た過去の存在へと言葉を贈るような、時空を飛び越えて逡巡と懐古を纏わせた言葉が多いことにある、しかもその存在を、他でもない聞き手自身だと思わせる辺りが心憎い。前作『orbital period』に「時空かくれんぼ」という楽曲があるように、それより前なら「ロストマン」があるように、加えて彼らの音楽変遷が徐々にカントリー・ミュージックめいた優しい音に包まれていったのと時を同じくして、彼らは過去を見つめなおし、時間軸に浮かび上がる過去の自分自身を見つめていたことがはっきりと分かる。

 作品をメタ的に俯瞰し、次元超越するかのように過去への言葉を唄うことということは、●×の影響が音にあらわれているなどといった無意識が現れ出たというレベルではなく、意識的な行動によって担保された、はっきりとした過去を彼らが見ているということにほかならない。それは、<恥>を受け入れること、<トラウマ>を乗り越えていくこと、<心の傷のを受け入れる>という闘いを始めるor共存していく、その一歩を刻むことともしかしたら同義なのだろう。
 同時に、彼らは俯瞰的に物事を見た上で、自分たちがあまりにもゆっくりに見えるが着実に進んでいくという姿を綿々と描いてきたことに気付いたのだと思う。いずれにせよ、過去を徹底的に見つめなおし、ゆっくりとだが行動を続けていく、それが彼らの強さなのだろう。それも、直接的に「戦え」という言葉を歌うこともなく、強い衝撃を与えるような音に拘ることも無く、人を戦いに赴かせることができる、そんな音楽を彼らは奏でている。

 次元を飛び越えて過去を振り返った彼らはその後、現実には存在しない歌姫、それも2次元上ないしは電子世界の歌姫とコラボレーションすることになるわけだが、両者がシンパシーを得るきっかけになったのも、彼らのこういった姿勢にあるのかもしれない。






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【ディスクレビュー】BUMP OF CHICKEN 『orbital period』 - 「そして君のために歌われた歌はないと唄う」
2014-03-29 Sat 00:50

orbital periodorbital period
(2007/12/19)
BUMP OF CHICKEN

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 前作『ユグドラシル』以来、3年4か月ぶりとなった一枚。またしてもロングスパンを設けた「鎖国状態」になった彼らではあるが、前稿までの流れを踏まえて考えれば、それは彼らにとってのアイデンティティの模索を意味していたのは言うまでもない。
 だがこの間、まったく音沙汰がなかったというわけでもない。本作は全17曲、そのうちシングル曲は「プラネタリウム」「Supernova」「カルマ」「涙のふるさと」「花の名」「メーデー」と6曲も収録している。1年に2枚は必ずシングルを発表するペースは、3年の間で徐々に変化を遂げていく姿が明らかになっている。

 必要以上に歪ませず、クリーントーンを軸にしたギターサウンドは、前作で奏でた丸みを帯びたアコースティックな響きを、より自然な形に成長させた本作のキモになっている。「supernova」や「花の名」などの弾き語りに近いスタイルのスローな楽曲は言うに及ばず、個人的には「プラネタリウム」、「涙のふるさと」、「飴玉の唄」といったミドルテンポの楽曲に、サウンドの変化を見ている。逆に、「カルマ」などのハイテンポナンバーが寂しく聞こえるようになってしまったのは手痛い。

 ギタリストの方々なら首肯する話だと思うのだが、彼らの楽曲を弾くには別段テクニックに秀でている必要はないし、特筆したギターソロでグイグイと引っ張っていくようなタイプの楽曲も多くはないのだが、どこか耳に引っかかてとれないフレーズが、アタマへと入り込んで駆けめぐる、そんなマジックがある。
 あまり気づかれない特徴だと思うのだが、彼らのサウンドの置く場所(専門用語で定位という)が非常にうまく、なにより音圧が他のバンドよりも若干低く設定されているように僕には思える。ど真ん中でドンと奏でられるわけでも、両耳の端っこで慎ましく響くわけでもない、エレキ特有のうるささからは程遠い丸みを帯びた今作のギターサウンドだが、このバランス感覚によって紛れも無く「ロック」の範疇に入ってくる。「THE LIVING DEAD」で感じられたセンスの良さが、ついに本作で開花しているように思えるのだ。





 「arrows」の流麗なアルペジオから始まるシンプルなサウンドのなかで、まるで「ロストマン」の後を引き継ぐように<迷子>が登場する。

どれだけ大事にしても偽物だよ
でも大事なことは本当だよ
預けたものなら要らないさ 迷子のままでも
君さえ居れば きっとぼくでいられるさ
一緒にここから 離れよう


前作「ユグドラシル」では、自己への言及とアイデンティティを模索していた言葉が連なっていたが、ようやく本作で、彼らはリスナーに向けて言葉を発しているように思える。しかもそれは、以前のような<隣にいる>というテーゼとは、別次元のそれだ。


ねぇ 君のために生きたって 僕のためになっちゃうんだ
本当さ 僕が笑いたくて キミを笑わせているだけなんだ
人によく思われたいだけ 僕は僕を押し付けるだけ
優しくなんか無い なれやしない なりかたがわからない



 こう歌われるのは「ひとりごと」だ。本作制作の初めの頃に制作されたと言われている。ともすれば、誤った勘ぐりを招きかねない一節だろうと僕は思うのだが、おおよそ藤原にはそんなことは関係などないと踏んでいるのだろう。Jupiter』の原稿でさらっと書いたが、こうした独白じみた内面の暴露は彼らの真骨頂、そしてソレを武器として研ぎ澄まされているのがよく分かる。
 しかも、本作でこう歌われた側であるリスナー側の返答は、彼らがツアーに参加するということで回収する、そんな構図によって補っている。ここで大きな剥離が見え隠れするようにも見えるが、それは大きなお世話であろう。なぜなら本作3曲目の「才脳人応援歌」では、藤原基央はこうも言い切っているからだ。

ファンだったミュージシャン
新譜 暇つぶし
売れてからはどうでもいい
はいはい全部綺麗事 こんなの信じてたなんて
死にたくなるよ なるだけだけど


~~~~~~~中略~~~~~~~~

僕らはみんな分かってた 自分のために歌われた歌など無い
問題ないでしょう


~~~~~~~中略~~~~~~~~
僕が歌う 僕のためのラララ
君が歌う 君のためのラララ
いつか 大きな声 ただ一人のための唄 ラララ



 自意識から生み出される極私的な内情の暴露が他者である聴き手の共感を得てしまう、それが彼らBUMP OF CHICKENの評価でありアイデンティティであったろう。だがココで彼らは、『自分たちが歌った曲は、別に君のために歌ったわけではない、それぞれの応援歌はそれぞれが自分のためだけに歌うんだ。』とはっきりと歌い上げている。初期の自分たちとを隔絶するようなこの冷徹な宣言と距離感は、ユグドラシルから成長した彼らを示す大切な一節だ。

 加えてこれまでの彼らの遍歴を踏まえて推敲すれば、(エゴイスティック的ではあるが)一度は自らのつよがりという偽善によって裏切ってしまったリスナーへの、<本当の藤原基央>の言葉の数々が本作には散りばめられているのであろう。<他者を灯台にして自分を照らす>ために歌っていた言葉が、<他者のために灯台を立てる>言葉へと、新たなBUMP OF CHICKENの始まりを告げる一枚となった。





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【ディスクレビュー】BUMP OF CHICKEN 『ユグドラシル』 - 光へと変わっていくための
2014-03-11 Tue 23:53

ユグドラシルユグドラシル
(2004/08/25)
BUMP OF CHICKEN

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 前作『Jupiter』から2年の時間をかけ、2004年に生み出された本作。製作に半年以上もの時間をかけたという「ロストマン」と、みんな大好きワンピースの主題歌になった「saling day」の2作をコンパイルしたシングルを2003年3月に発売、その後1年近い曲作りとレコーディングを経て生み出された。

 本作で、彼らは大きな変化を通り越えていくことになった。主軸であった所謂「ギター・ロック」のサウンドから、アコースティックギターやカントリーミュージックに接近し、緩やかなリズム感とアコースティックギターの柔らかな音色を混ぜ合わせたことだ。

 元を辿れば、藤原基央のカントリー・ミュージック好きがきっかけだと思われるが、本作以後の2作「orbital period」と「COSMONOUT」ではその趣向は徐々に大きくなっていく。この志向性が、海外インディーシーンの「チェンバー・ポップ」と同時代的に動いたということも見逃せない。Sufjan Stevens、Bon iver、Fleet Foxes、Mumford & Sons、Of Monsters and Menなど枚挙にいとまがないが、彼らとBUMP OF CHICKENがこうして同時代にいるのは非常に面白いと思う。
 無論、バンドサウンドの変化としては決して小さくない変化なのだが、本作の1曲目のインストナンバー「Asgard」とラストの「Midgard」を筆頭に、「車輪の唄」「同じドアをくぐれたら」「Fire sign」などを聞けば、たった2年でカントリー・ミュージックを咀嚼し、自分たちの音として奏でたことに驚いた人多かったと思う。






 2005年6月当時、後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)&藤原基央のラジオ対談
 10分頃からの「青春の音楽」というお題で話が始まるが、そこで藤原基央があげるのはCreedence Clearwater Revialとカントリー・ミュージック界の凄腕ギタリストRon Block(Ron Blockを聴いてる10代ってすげぇよなぁ!)。Ron Blockは言うに及ばず、CCRのスワンプ・ロック/サザンロックは、ブルースとカントリーが色濃く反映されたロックだ。この血筋は、バンド初期の「ガラスのブルース」というタイトルなどから脈々と彼らの中に繋がれてきたもの。『同じドアをくぐれたら』や『レム』といった弾き語りを軸にした楽曲に、心を鋭く攻撃するような歌詞が紡がれるなど、彼らが奏でてきたいわゆる『ロック』を超え、両親であるカントリーとブルースを意識してうみ出されたのが本作、もしかしたらそんなことを言ってもいいのかもしれない。


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 こうしたサウンド面での過度期をとらえたのが本作であり、同時に、作詞家・藤原基央の変様が大きく見て取れるのが、本作でもある。
 ここで、半年以上もの時間をかけ制作を続けた「ロストマン」を見てみよう。

状況はどうだい 僕は僕に尋ねる
旅の始まりを今も思い出せるかい?
選んできた道のりの 正しさを祈った
いろんな種類の足音 耳にしたよ
沢山のソレが 重なって また離れて
淋しさなら忘れるさ 繰り返すことだろう
どんなふうに夜をすごしても 昇る日は同じ

破り残った 手作りの地図
たどった途中の現在地
動かないコンパス 片手に乗せて
霞んだ目 凝らしてる

君を失ったこの世界で 僕は何を求め続ける
迷子って 気付いてたって気づかないふりをした


 素読みしてみれば、これはリスナーのために綴られた言葉としてだけではなく、過去の自分たちを逡巡した独白めいた言葉にも読める。
 1stアルバムの項であげた「バトルクライ」を思い出してみよう。

本当は強がってるんだ。強がって、またウソついて
それが僕のわずかな力 ただの強がりやウソさえも
願いをこめれば誇れるだろう 望めば勇気にもなるだろう


と、強がることも一つの強さだと歌っていた。
ここで本作の「乗車権」を見てみよう。

強く望む事が、欲しいと望んだよ。
夢の先なんて、見たくもないから


 つよがりやウソに願いを込めても勇気にはならない、ロストマンの歌詞と合わせて読めば一目で彼らの変化がわかるはずだ。本作収録の「レム」で歌われる「生まれたことを恨むのなら、ちゃんと生きてからにしろ」を、前作の「Title of mine」と比較して読んでもいいし、もうひと押しすれば、「バトルクライ」を収録した『FLAME VEIN+1』は『ユグドラシル』発売直前にリリースされている。これは僕の妄想の話だが、もしも本作で藤原が誰かに向けて歌っているのだとしたら、それは過去の自分たちも視野にあったのかもしれない。

 前作『Jupiter』と「天体観測」の大ヒットの余波により、既存ファンと新規ファンの大きな入れ替えがあったり、演奏力の無さを叩く匿名の言葉などが乱れ飛んでいたのを、僕はよく覚えている。鋭いギターサウンドから柔らかいサウンドに包まれていった本作の彼らは、自己治癒とアイデンティティの模索(あるいは再構築)をしていたのではないか。ある意味では、彼らが子供から大人へと向かう瞬間を切り取っているといっていい。そして、過去に彼らが強がりつつも決めこんだ<君のために歌を歌う>という選択について、「fire sign」は前作収録の「ベンチとコーヒー」や「メロディーフラッグ」をもじりながら歌い上げていくのだ。




微かでも 見えなくても
命の火がゆれてる
風を知って 雨と出会って
僕を信じて燃えてる

歌うように 囁くように
君を信じて待ってる
微かでも 見えなくても
命の火を見つける




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【ディスクレビュー】BUMP OF CHICKEN 『Jupiter』 - 帯びた誠実さとその理由
2014-03-08 Sat 23:19




jupiterjupiter
(2002/02/20)
BUMP OF CHICKEN

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 いきなりだが、僕らはそもそも【ロック】という音楽が、馬鹿と利口がくっついてしまっていることを案外見落としてしまう。

 例えば、ビートルズはどうだろう。
 彼らは確かに伝説級のセールスと人気を誇っているが、初期作にはカバー・ソングも多く、先達者から受けた影響を似通ったフレーズやカバーソングとして出してしまう辺りに、ビートルズのちょっとした馬鹿正直さが見えてくる。
 もちろん、影響されたエッセンスを凝縮し秀でたポップソングを生み出すセンスがあるし、中期になれば、サイケデリックさとポピュラーミュージックの折衷を目指していくバンドへと変貌していったのは、言うまでもなくこの馬鹿正直さがあったおかげからかもしてない。だが、この中期頃の格好はいかにも『ちんどん屋さん』そのもので、当時から見ても、今の時代から見ても、普通の人から見れば笑い者にされてしまう。彼らは、馬鹿と利口を両手に持っていたバンドなのだとボクは思う。







 例えば、Mr.Childrenはどうだろう。
 解散もメンバー交代もなく、20年以上もの間愛され続ける国民的バンド。アメリカで言えばRed Hot Chili Peppers、解散してしまったがR.E.M、イギリスで言えばU2など、挙げてしまったバンドは洋楽ロック好きなら必ず見たことがあるビッグネームだが、遍歴を見ればMr.Childrenは彼らと非常に近しいバンドだ。
 一切海外での活動を行わない「ドメスティック・ブランド」のイメージを継続し、日本における「ロック」を自問し、その答えを様々な言葉と音で示し続けてきた、ある意味では模範的で利口なロックバンド。だが彼らはThe Beatlesに比べてしまえば(すごく極端な対比論で申し訳ないが)、世の中を丁寧に俯瞰して視るがゆえに、無責任にも似た馬鹿さ加減が少しだけ足りないように見える。








 そんなことを考えながら、BUMP OF CHICKENのメジャーデビュー作『Jupiter』に考えを寄せる。
フジテレビのドラマモチーフに選ばれ、そのドラマに使われた主題歌は大きなヒットを飛ばす。メジャーデビューしたロックバンドとしては最大級の追い風が、当時の彼らに吹き付けていた。

前作『THE LIVING DEAD』には、廃盤となったシングル「リリィ」が収録されている。

「低いステージの上 必死で格好つけた
自分も人も上手に騙し”真面目に聞けよ!”って怒鳴り散らした
~~~~~~中略~~~~~~
低いステージの上 必死で格好つけた
自分も人も上手に騙し 夢を見て 夢を見せた」


一つの物語の上で成り立っていた前作の中で、この歌詞は当時の彼らをそのままに表している。

ライブっていうのは、お茶の間でせんべえかじりながら見るようなもんじゃねぇんだよ
チケット取れなかったとか色々あるかもしれないけど死ぬ気でチケット取れ、そんで、見にこい。俺らあれだから、ブラウン管の前で評価されたくないから
俺らはハリウッドスターほど会えない人達じゃない。現に俺らは曲で君達のそばにいるから。
(ライブ中に演奏を止め)おい、おめーら、手拍子なんかしてんじゃねえ、一緒に合唱してんじゃねえよ、演歌じゃねぇんだから

ひどい言葉もあるが、ほぼすべて、彼らがJupiter発売前のライブでMCした言葉だ。
もともと青臭いつよがりを必死に続け、責任を過多に背負い込み、ショーマンシップとエゴイズムが錯綜した胸中で、当時の彼らは目いっぱいに走り抜けていた。そこに巨大な期待感という風が吹き付ければ、どうなってしまうかは自明だったのかもしれない。


人に触れていたいと願う人が好きだ、
嗚咽さえもタレ流して、何度と無くすがりついて傷ついて
君に触れていたいよ 名前を呼んでくれよ 
誰もいなくて一人なら こんな歌をうたう俺の生きる意味 
一つもない

(『Jupiter』収録の「Title of mine」より)





 以前からのファンから聞いた話だが、初めて今作を聞いた時、あまりのバカらしさにヘッドフォンを投げ出してしまったという。前作2枚で奏でられた勢いや、『FLAME VEIN』で見せてくれた強がりな姿勢も、『THE LIVING DEAD』で見せた作家性やリスナーとの繋がりも、ここには「ダイヤモンド」と「ダンデライオン」に見えるだけだ。

 その代わりに露見してしまったのは、<周囲>という巨大な期待感とそれによる恐怖心にあおられた、藤原の不安定さ、自己憐憫に浸るナルシストのような姿。前作「THE LIVING DEAD」で素敵な物語を謳い聴かせてくれた腹話術師ではない、ただの弱い人間がそこにいるということだ。

 このようなストレスに陥った状態で活動を続けてデビューCDを出すという意味を、強気とみるか、博打に目の眩んだ大馬鹿とみるかは、人それぞれであろう。いずれにしても、テレビドラマを経由して本作で初めて彼らを聴いた人はまずは思ったに違いない、「こんなに嘘偽り無く、正直に自分の心をそのまま歌うバンドは、初めてではないのか」と。僕もそのうちの一人だ

 これまでの軽快なギターロックとしてではなく、エフェクター処理と綿密なプロダクションによって重々しいギターサウンドへと変貌し、ヘッドフォンやイヤホンの外側の世界を遮断するという意味を強め、本作が醸し出す精神的な不安定さを孤独感へと強めるアクセントになってしまっている。(後年本作を聞き返してここまでしなくてももっとやりようはあったのにとメンバーがインタビューで答えていた。あれは何の雑誌だったか・・・)。

 この大きすぎるギターサウンドという壁は、か細さが際立つ藤原の声に耳を澄ますリスナーを増やし、ナルシズムに陥るスレスレの誠実さを持った歌詞を聴かせる一助になっているのは言うまでもない。言葉というナイフを持ったバンドとしては、不可逆的にその強さを発揮しているといえよう。また「ダンデライオン」の高速ブルーグラス・ナンバーは、藤原本人の嗜好とその後の彼らを予期させる。



https://www.youtube.com/watch?v=hnHt-e9vwNU



 多くの熱心なファンが思っていることではあろうが、、このメジャーデビュー作は、彼らのイメージ通りの作品ではないであろう。繰り返すようだが、BUMP OF CHICKEN、そのバンド名「弱者の反撃」が、<弱者による「強がり」とその「告白」>として露見したのが本作であるが、前2作で強がりつつも見せていた誠実さは、完全に壊れてしまったように見える。
 だが今作で大きく吐き出してしまった「作家・藤原の弱さ」が、『愚直で誠実なバンド」であることを皮肉にも証明してしまった一作でもある。それは彼らが望まぬ格好で手に入れてしまったものだと僕は思う。そしてその影響力は、雨後の筍をみる限り、果てしなく大きいと思う。








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【ディスクレビュ-】BUMP OF CHICKEN『THE LIVING DEAD』 - 「腹話術師が導いた答え」
2014-03-03 Mon 23:04


THE LIVING DEADTHE LIVING DEAD
(2004/04/28)
BUMP OF CHICKEN

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 ほぼすべての曲の作詞・作曲・レコーディングを1999年秋から2000年春にかけ、アルバム曲のレコーディング期間は約一週間、藤原以外の人間はメロディーも歌詞も知らない状態で録音。まさに目の回るような勢いで製作が進んだのが今作『THE LIVING DEAD』だ。

 今作収録の楽曲の歌詞は全編小物語としての体裁やテイストが施されており、1曲目の「Opening」で、涙をながす<キミ>にとあるキャラクターが「いくつのか物語をプレゼントしてあげよう」と語りかけ、最終曲「Ending」で再び冒頭の人物が現れ、「プレゼントした曲」を仲間にしてガンバレと歌い、涙を流している人の元にまた旅立っていく。一曲一曲の短編的な歌詞群に気を取らられず、俯瞰的に見れば「THE LIVING DEAD」そのものが涙を流す<キミ>に向けられた短篇集となっているのだ。

 ここまで作品概略を綴ってはみたものの、僕は<物語作品>といった印象は一切持っていなかった。言われてみれば「そうだね」という程度の、刺し身を食べる際にわさびを入れるかどうかといった、スパイスのような装置だと思っていた。だが今作で見せた「設定好き」や「筋書き」といったメタな手法、は、どうやらバンプオブチキンという表現体にとってはその後重要な点を捉えているようである。

 話を本筋に戻そう。本作は言うなれば、<大きな一歩>と言えばいいだろう。前作の荒削りすぎたサウンドはグッとシャープさを増し、ギターロック・バンド然としたサウンドスケープを手に入れた。「グングニル」や「グロリアスレボリューション」のハイテンポナンバーから、「Ever lasting lie」や「リリィ」のようなミドル~スローテンポな楽曲までをも揃える。

 これだけならばその他大勢のバンドと大差はないのだが、本作で特筆すべきは、「ギター」という一本の筆だけでのみということであろう。打ち込みサウンドの彩飾も、ブラスバンドの合いの手も一切なく、エフェクターによる音色の変化も左右の手だけで事足りるほどで、おまけにリズムも単純な8ビートだけを刻み続けているとくれば、かなり平凡なアルバムではなかろうかと思われても仕方ない。にも関わらず、本作の10曲はこの10年間多くの人を魅了してきた、彼らのハイセンスぶりがどことなく伺え知れる。








 白黒2色の濃淡だけで彩どったような音世界のなか、本作の歌詞は物語形式を取ったことで、彼らBUMP OF CHICKENによる<主格の視座の置き方>がはっきりと浮きぼられている。

 J-POPの大半は、歌を唄っている人物がその歌の登場人物本人であることが仮託された(そう見えるように作られた)歌詞が多い。けれども、とあるキャラクターが<涙を流すキミ>に向け物語を紡ぐ本作では、歌う人間(とあるキャラクターはもちろん歌う本人も)は、楽曲内の登場人物には決してなれない、腹話術師のような形が取られている。

 歌詞中には、荒れ狂う大嵐や大雪、主人公を強く責め立てる社会や逆らえぬ運命など、圧倒的に強く理不尽な存在が登場し、そういったどうしようもない存在に立ち向かう物語ばかり。「グングニル」は欧州神話をもじった単語と責め立てる社会に揉まれ航海へと出る物語、「K」は死んだ飼い主の手紙をその恋人へと届けていくネコの物語、愛する人のためにシャベル片手に砂を掘り続ける人を描く『Ever lasting lie』、力強く生きていくための処世術を歌う『グロリアスレボリューション』。歌い手ではないキャラクターが<隣にいる>という異物感は、登場人物を優しく慰め励ます歌詞と、藤原基央の細い歌声、気だるさと力強さが交互に訪れる歌い口によって、時に増幅されていると言っていい。まさにBUMP OF CHICKEN≒「弱者の反撃」の名に恥じない言葉の数々だ。

 もちろんこの腹話術師のような方法論はエポックメイキングなものではなく、昔からあるような常套手段だということは、強くここで断っておきたい。だが、自分自身とはなにか?という強がり含みの表明に終始していた前作から、キャラクターを使った<君のために歌を歌う>という本作での選択は、後にBUMP OF CHICKENにとって重要かつ、大きな鎖となっていく。
 
 さて、本作を『The Living Dead』とつけた意味はどこにあるのだろうと考えたとき、ふっと気づくことがある。再生し、停止し、再生し、停止し・・・CDというメディアはまさに「ゾンビ≒リヴィングデッド」であり、何度でも蘇生≒再生することができる。それは最終曲「Ending」で歌われたような、本作の、涙を流す<キミ>に向け物語をプレゼントするというコンセプトを盛り立ててくれるのはいうまでもない。
 「悲しくなった時、この作品を聴けば、勇気の出るうたが必ず届けられる」。この謳い文句、リスナーとの信頼関係を築くのにはもってこいだろう。大きな木に向かって歩く人物を描いたあの白黒のジャケット絵のように、彼らは大きな一歩を踏み出している一作だ。









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